●松島真景図 1幅 昭和45年10月1日指定
谷文晁(江戸時代後期の画家、諸国を巡って写生画などに優れた)の筆によるものです。

天明年間に来松したときの印象を描き、天明7年(1787年)春に印刷・発行したところ大きな評判を得ました。
淡彩で鳥瞰(ちょうかん)の構図で島々を描いています。

 

●伊達政宗像(初代) 1幅 平成2年4月6日指定

 筆者不明 賛・瑞巌寺第99世雲居和尚
(紙本着色・墨書 縦77.4cm 横29.1cm) 

 

伊達政宗(1567から1636年)は幼少の頃に天然痘を患い、右目を失明しましたが、残されている画像や木像の多くには遺言によって両目が表現されています。
賛には南奥羽を手中に収めた武威と、茶道・書・和歌・漢詩・能などに秀で、一流の文化人でもあった人柄が表現されています。
瑞巌寺中興開山・雲居の最晩年の筆です。
賛とは、画に添えた詩や歌・文などのこと。褒め称える内容が多いようです。

 

●伊達忠宗像(二代) 1幅 平成2年4月6日指定 

 筆者不明 賛・瑞巌寺第100洞水東初
(紙本着色・墨書 縦116.8cm 横58.4cm) 

 

伊達忠宗(1599から1658年)は政宗と、その正室愛姫(陽徳院)の長男。
二代藩主となり、父の遺言を守って雲居和尚を瑞巌寺中興に迎えました。
また19歳で夭折した息子・光宗のために圓(えん)通(つう)院を、母のために禅刹陽徳院を建立するなど、松島と関係が深く、治世面でも父の政宗に劣らない守成の名君と評価の高い人物です。

 

●伊達綱宗像(三代) 1幅 平成2年4月6日指定

 筆者不明 無賛
(絹本着色 縦109.9cm 横46.3cm) 

 

綱宗(1640から1711年)は二代忠宗の6男。母は側室櫛笥(くしげ)氏貝姫。
次兄の光宗が早逝したため世継となり、父忠宗が死去した万治元年(1658年)、三代藩主に就任しました。
家臣団の対立などが原因で21歳の若さで隠居したことで、後の伊達騒動に繋がったとされています。
綱宗自身は風流人で諸芸に通じていたため、その後は約半世紀を芸術三昧に過ごしました。
画・和歌・書・刀剣などに優れた作品を残しています。

 

●伊達綱村像(四代)) 1幅 平成2年4月6日指定

 筆者不明 賛・瑞巌寺第105世天嶺性空
(絹本着色 縦124.8cm 横55.5cm) 

 

 村(1659から1719年)は三代綱宗と側室三沢氏初子の長男。四代を継いだのは、わずか数え2歳のときでした。
従四位上左近衛中将の正装の姿です。
臨済禅・黄檗(おうばく)禅に帰依が厚く、参禅体験によって培われた厳しさが表情から見てとれます。

 

 

 ●伊達吉村像(五代) 1幅 平成2年4月6日指定

 筆者 狩野栄川古信  賛・伊達吉村
(紙本着色 縦112.0cm 横62.0cm)
 

吉村(1680から1751年)は宮床邑主伊達宗房(二代忠宗の8男)の長男で、四代綱村の養子となりました。
買米制度の改革・仙台通宝の鋳造など産業開発・政治の能率向上に力を尽くしました。

 

 

●伊達宗村像(六代) 1幅 平成2年4月6日指定 

 筆者 菊田栄羽古行 無賛
(紙本着色 縦108.2cm 横60.3cm) 

 

宗村(1718から1756年)は五代吉村の4男。母は正室久我氏貞子。
父に似て絵画や書が巧みで教養にあふれた人柄でしたが、35歳の若さで早逝しました。
なお夫人は八代将軍吉宗の養女で、利根姫。温子(あつこ)です。

 

●伊達重村(しげむら)像(七代) 1幅 平成2年4月6日指定

 筆者 土井山城守源利徳 無賛
(紙本着色 縦103.0cm 横57.0cm)
 

重村(1742から1796年)は六代宗村の長男。母は側室性善院坂氏。
武勇を好み、機知に富んで、数々の逸話を残しました。また文芸にも秀で私家集『掬月集』があります。 

 

 ●伊達斎村(なりむら)像(八代) 1幅 平成2年4月6日指定 

 筆者 土井山城守源利徳 無賛
(絹本着色 縦103.0cm 横56.8cm) 

 

斉村(1774から1796年)は七代重村の次男。母は側室正操院喜多山氏。
23歳の若さで逝去しました。
瑞巌寺の門前に建つ青龍山灯塔は、斉村の菩提を弔うために、夫人の鷹司氏が1周忌を期して建立したものです。

 

●伊達周宗(ちかむね)像(九代) 1幅 平成2年4月6日指定

 筆者 荒川養湖惟光 無賛
(絹本着色 縦102.1cm 横55.7cm) 

 

周宗(1796から1812年)八代斉村の長男。母は正室鷹司氏誠子。
歴代藩主で唯一の未婚者。17歳で早逝しました。
筆者の荒川養湖惟光は仙台藩の画員です。江戸狩野家(木挽町)七代養川院惟信に師事しました。 

 

●伊達斉宗(なりむね)像(十代) 1幅 平成2年4月6日指定

 筆者 荒川養湖惟光 無賛
(絹本着色 縦104.1cm 横59.4cm) 

 

斉宗(1796から1819年)は九代周宗の異母弟。
兄が若くして亡くなったため、十代藩主を継ぎました。

 

●伊達斉義(なりよし)像(十一代)) 1幅 平成2年4月6日指定

 筆者 菊田伊徳栄 無賛
(絹本着色 縦98.0cm 横58.8cm)


斉義(1798から1827年)は一関藩主田村左京太夫村資の四男です。十代斉宗が早逝したために養嗣となりました。
筆者の菊田伊徳栄は仙台藩の画員。

 

●伊達斉邦(なりくに)像(十二代)) 1幅 平成2年4月6日指定

 筆者 菊田伊徳栄 無賛
(絹本着色 縦93.5cm 横54.2cm)


斉邦(1817から1841年)は登米伊達家当主伊達長門宗充の長男。十一代斉義の早逝により養嗣となりました。

 

●伊達光宗像 1幅 平成2年4月6日指定 

江戸時代中期 筆者不明 賛・鵬雲東縛(ほううんとうばく)
(絹本着色 墨書 縦123.0cm 横55.9cm)


 光宗は、二代伊達忠宗の次男。
明敏な人柄で将来の大器と嘱望されていましたが、正保2年(1645年)に19歳の若さで逝去したため、多くの哀惜を集め,瑞巌寺の西隣に廟所圓通院が建てられました。
堂内に安置されている騎馬像彫刻も端麗な造りで知られますが、この図も馬上の品格ある束帯(そくたい)像を表現しています。
賛は、瑞巌寺百一世鵬雲東縛(ほううんとうばく)が、延宝5年(1677年)に書き入れたものです。 

 

●天麟院五郎八姫(いろはひめ)像 1幅 平成2年4月6日指定

江戸時代前期 筆者不明 無賛
(紙本着色 縦107.0cm 横50.4cm)


天麟院は政宗の長女五郎八姫。母は愛姫(陽徳院)。
晩年は雲居や洞水に深く帰依し、富山観音堂、松島天麟院を造営しました。
この画は、65歳で落飾(剃髪して出家すること)し、法衣・掛格(ほうえ・から)を身につけた姿で、木像とほぼ同じです。

 

 

●洞水東初像 1幅 平成2年4月6日指定

寛文13年(1673年) 筆者 絵所左近貞綱 賛・虚檽了廓(絹本着色 墨書 縦101.3cm 横39.4cm)


洞水(1605から1671年)は日向国飫肥(ひゅうがのくにおび)(宮崎県日南市)の出身。俗姓は伊東氏。
18歳のときに仙台覚範寺の清岳宗拙に師事し、政宗にその力量を認められて、後に瑞巌寺に移り、摂津から雲居を迎え、膝下に参じて印可を得て雲居の教化を補佐しました。
本山妙心寺に住職したのが3回、法嗣18名、開創中興12ヶ寺、大機円応禅師号を勅溢(ちょくし)されました。

 

●雲居希膺(うんごきよう)像 1幅 平成2年4月6日指定 

万治3年(1660年) 
筆者 左京亮勝綱(さきょうのすけかつつな) 
賛・徹宗宗源(てっしゅうそうげん)
(絹本着色 墨書 縦93.5cm 横54.2cm)


中興開山・雲居(1582から1659年)は土佐一条家の家臣小浜(こはま)左京の子。
京都妙心寺の塔頭・蟠桃院(たっちゅう・ばんとういん)の一宙東黙(いっちゅうとうもく)の法嗣(ほっす)。
政宗の遺言によって松島に迎えられ、瑞巌寺現法系の基礎を作りました。
法嗣15名、開創および中興の寺院が173というのは、妙心寺派の下では屈指と言える業績でした。
賛は虎哉宗乙(こさいそういつ)の孫弟子徹宗で、雲居の一周忌法要の折に制作されました。

 

●夢庵如幻(むあんにょげん)像 1幅 平成2年4月6日指定

筆者 石髄甫韶(せきずいほしょう) 賛・夢庵如幻
(絹本着色 墨書 縦109.7cm横48.5cm)


賛と左下端の落款(らっかん)・印章によって、この像が夢庵の法嗣石髄によって描かれたことがわかります。
ふつう画像は専門の絵師の手によるものですが、石髄は本職と見紛(みまが)うほどの力量を持っていました。
夢庵は気仙郡吉浜(岩手県大船渡市)の出身、瑞巌寺104世です。

 

●出山釈迦(しゅうさんしゃか)・猪頭(ちょとう)和尚・蜆子(けんす)和尚図 3幅 平成2年4月6日指定

筆者 狩野永真安信 無賛
(絹本墨画 縦131・9cm横64.5cm)


中幅に出山釈迦、右に豚の頭を持つ猪頭和尚、左に蝦(えび)を手にした蜆子和尚を描く、いわゆる道釈画と呼ばれる禅僧や道士の奇矯な逸話に取材した絵で、この絵は三代綱宗の遺愛品でした。
永真安信(1613から1685年)は孝信の3男。次兄尚信に絵を学び、奥絵師宗家の中橋狩野家を嗣ぎました。 

 

●絵馬 二面 平成2年4月6日指定 

筆者 狩野玄徳 慶安3年(1,650年)
(木版金箔貼。墨画、彩色、縦31.9cm 横51.2cm)


「奉掛五大尊」の墨書からもわかるように、もともとは松島五大堂に掲げられていた十二支額の一部でした。残念ながら10面は失われてしまったようです。
筆者の狩野玄徳(1607から1669年)は、仙台城や瑞巌寺の障壁画に携わった狩野(佐久間)左京の子で、二代目の仙台藩画員になりました。
とくに洋犬図については、同朽の作が江戸時代初期の長谷川派に数点確認されます。


●白衣(びゃくい)観音図 1幅 平成2年4月6日指定

筆者 狩野探幽
(絹本墨画 縦143.0cm 横77.5cm)


岩上の草座(そうざ)に坐って瞑想する姿です。
肥痩(ひそう)の強い線で衣線を描き、顔貌には静かさと気品があふれています。

 

 

●陽徳院田村氏像 1幅 平成2年4月6日指定

江戸時代前期 
筆者 不明
(絹本着色 縦87.3cm 横36.2cm)


 伊達政宗の正室・田村氏愛姫(めごひめ)は政宗の没後、落飾して陽徳院と号しました。
この画像は陽徳院の晩年の姿を描いたものです。両手に数珠と経典を持ち、袈裟を架けた姿は、木像とほぼ同じです。

 

●大仰寺開山洞水禅師画像 1幅 平成7年9月29日指定

筆者 絵所徳栄(別名左近貞綱)
賛・木庵性稲(とう)

茶色の直綴(じきとつ)に紅色の袈裟を身につけ、正面向きに描かれたこの像は、江戸時代前期、明から来朝した隠元(いんげん)一派のいわゆる黄檗様(おうばくよう)です。
洞水は妙心寺三住の寛文10年(1670年)春に、宇治黄檗(おうばく)山を訪ねて隠元・木庵と会い、お互い意気投合しました。

 

●仙台領内絵図 1幅 平成7年9月29日指定

(着色 525cm 横310cm)


仙台領内絵図としては、時代・大きさとも仙台市博物館所蔵の奥州仙台領国絵図(正保年間(1645から1648年))に次ぐものです。